一領具足と龍馬
一領具足とは、平時には田畑を耕し
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農民として生活をしているが、
領主からの動員がかかると、
一領(ひとそろい)の具足(武器、鎧)を携えて、
直ちに召集に応じることを期待されていた。
突然の召集に素早く応じられるように、
農作業をしている時も、常に槍と鎧を田畑の傍らに
置いていたため、一領具足と呼称された。
また正規の武士であれば予備を含めて二領の具足を
持っているが、半農半兵の彼らは予備が無く
一領しか具足を持っていないので、
こう呼ばれていたとも言う。
このような半農半兵の兵士であるから、
一領具足は通常の武士が行うべき仕事は
免除されていた。
農作業に従事しているために、
身体壮健なものが多く、また集団行動の適性も
高かったため、兵士として高い水準に
あったと考えられる。
ただし、その半農半兵という性質上、
農繁期の動員は困難であり、長期にわたる戦役には
耐えられなかったと推測される。
一領具足を考案したのは長宗我部国親である。
(家臣の吉田孝頼という説もある)。
もっとも積極的かつ効率的に一領具足を運用したのは、
国親の子の長宗我部元親である。
元親は精強な一領具足を率いて四国統一を
果たしたが、豊臣秀吉による四国征伐によって、
元親の領地は大幅に削減され、土佐一国のみとなる。
さらにその後の関ヶ原の戦いでは、家督を
継承していた元親の四男長宗我部盛親が
西軍に与したため、戦後、所領は
没収され改易となった。
長宗我部家の後継として土佐を与えられたのは
山内一豊だったが、長宗我部家の遺臣団は
新領主の登場を必ずしも歓迎しなかった。
一領具足による反乱がたびたび起こったが、
山内家はこれを鎮圧し、やがて一領具足を含む
長宗我部遺臣団を、藩士(上士)以下の
身分である郷士として取り込んだ。
土佐では郷士は藩士と厳密に区分されたため、
江戸時代を通じて上下対立の原因となった。
(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
以上は引用である。
大河ドラマ「 龍馬伝」をご覧に
なられている皆さんは
土佐藩における武士の身分に格差(差別)が
ある場面を何度も垣間見られていることと思います。
その郷士の中から累代の功績を認めて、
上士待遇とした家柄が「白札」と呼ばれました。
武市半平太などは、そうした家柄にあたります。
さ て郷士と呼ばれる身分であった坂本龍馬。
世に数多くの本が溢れ、語り尽くされた感が
しますが
1991年に発刊され『指導者の企画力』で
歴史小説家である童門冬二氏が
「龍馬は独創性の人ではなく、他人から得た
ヒントを最大限に活用増幅した人」と述べています。
そのポイントをまとめれば
・彼は物事の本質を見極める鋭い洞察力があった。
・いつもみずみずしい好奇心と挑戦精神を持っていた。
・龍馬は情熱の人であったが短気ではない。
龍馬と直接話したと伝えられる徳富蘆花は
「ゆっくりと話す人だった」を思い出を書いています。
・彼の事績と言われる
「薩長連合」「海援隊の創設」「船中八策」
「大政奉還建言」など、彼のオリジナルではない。
その全てが他の人が途中で放り出したり
その人が途中で斃れて実現できなかったものである。
では龍馬が何故、龍馬たりえたか。
それは人間に対する無限の愛であり
人に対する優しさであった。
太宰治の資質と同じごとく
何よりも人をよろこばせることが好きであったに
違いない。
そうした視点で坂本龍馬を捉えると
多分、今まで見えなかった部分としての
龍馬像が見えてくるかも知れない。
青木法務事務所HP
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