銅鐸の謎⑤

左近法務事務所

2010年07月04日 17:05



二世紀から三世紀にかけての東方アジア諸民族には
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ほぼ共通した祭祀形態があったと
斎藤忠氏は『考古学概論』の中で指摘しています。

農耕生産を主とする民族に多く見られ
種をまく春と収穫の秋とに
天を祭る祭祀が行われていた。

『魏志』では
(夫余):
正月天を祭る。国中大会し、連日飲食歌舞し
名付けて迎鼓という。

(高句麗):
鬼神を祭る。また霊星社稜を祭る。十月天を祭る。
国中大会し、名付けて東盟という。

(韓):
常に五月を以て種を下し終わり鬼神を祭る。
大木を立て鈴鼓を懸け鬼神に事える。

(辰韓・弁辰):
鬼神を司祭する。

稲作づくりにおける収穫の出来不出来は
村落共同体の人々にとって深刻な問題であり
季節の変化や天候が直接影響します。

それを祭祀の力によって
神をなだめ祈り、豊かな豊作を期待し、また収穫を
感謝する。
銅鐸を始め銅剣・銅鉾はいわば
非実用的な類であり
祭祀形態の中で「祭器」として重要な意義をもつ
存在だったと言えましょう。

考古学者である安本典美氏は
その著書『卑弥呼と邪馬台国』の中で
注目すべき指摘をしています。

1. 『古事記』『日本書紀』の神話では、鉾と剣(さらに鏡と玉)とがしぱしば語られている。
  これは筑紫中心の銅鉾銅剣の文化と照応している。

2. 『古事記』『日本書紀』の神話は、銅鐸についての記憶を残さない。
  畿内の銅鐸は、二、三世紀の、弥生式文化の後期に、
  もっとも盛大となりしかも突然、その伝統を絶つ。
  713年、大和の長岡野で銅鐸が発見されたとき、人々はこれをあやしみ、
  『続日本紀』には、「その制(形)は、常と異なる。」と記されている。
  銅鐸は、多く隠匿したような形ででてくる。
 
3・『古事記』『日本書紀』の神話は、剣と矛とのことをしぱしぱ語っている。
   しかし、銅鐸については、沈黙する。これは、『古事記』『日本書紀』の神話が、
   近畿中心の銅鐸文化圏において、発生したものではないことを示している。

4・銅鐸によって代表される宗教的、政治的権力は、銅鏡、銅剣によって代表される
  大和朝廷によって滅ぽされたのであろう。
  銅鐸文化は、畿内を中心に紀元前後数世紀にわたって栄えた文化であり、
  大和朝廷が初めから畿内にあったとすると、両者の問に、
  なんの結びつきもないのは、不可解である。

5・ 古墳は、畿内に、突如としてはじまる。
   これは、新しい政治勢力が、畿内に進出してきたものとして、自然に理解できる。
   銅鐸文化の消滅と古墳文化の発生は、その背後に、支配層の交代のあったことを思わせる。

弥生時代の終末、銅鐸が突然、消滅してから
約50年後、巨大な古墳が出現します。
これは果たして何を意味したのでしょうか。
謎はますます深まるばかりですね。

(銅鐸の謎、以後不定期ですが続きます)

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