邪馬台国の謎④:青銅器
今月の24日、新潟県で青銅器が発見された。
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つい最近までは北信の中野市、柳沢遺跡で
発見された銅戈と銅鐸の共伴が東日本の北限と
されていたが、それもいよいよ塗り替えられたようだ。
村上市教育委員会では、弥生時代の青銅器の
出土例としては国内最北で、西日本の弥生文化の
進出を示すものと報じている。
出土した青銅器破片は長さ約2センチと
約3・5センチで、やりの柄に装着して使う
2世紀ごろの「筒形銅製品」の一部とみられるという。
筒形銅製品はこれまで関東以西でしか出土しておらず、
今回で9例目。
山元遺跡は、周囲を堀でめぐらせた弥生時代の
高地性環濠集落で、分析した結果、
弥生後期の青銅器と判明した。
発掘に携わった明治大の石川日出志教授(考古学)は
「東海や近畿地方で製造され、日本海側ルートで
新潟に伝わったのではないかと推測する。」
としている。
折しも今年は島根県、出雲地方の
荒神谷遺跡で発見された銅剣358本、同じ山の斜面から
銅鐸6個と銅矛16本を発掘した年から
数えて25周年目でイベントが開催されている。
この荒神谷遺跡で発見された
銅矛・銅鐸・銅戈について
大塚初重氏は以下のように分析している。
(銅矛)
九州の佐賀でつくられ、出雲に運ばれた。
(銅鐸)
北九州から古い形式の銅鐸鋳型が発見されている
ことにより、6個の銅鐸は北九州でつくられ
出雲に運ばれたのではないか。
(銅剣)
358本の銅剣は
その出土状態と形式から
出雲でつくられたのではないか。
また、荒神谷遺跡からほど近い加茂岩倉遺跡
から出土した39個の銅鐸に関しては
畿内を中心につくられ、出雲などに搬入されたのでは
ないかと指摘している。
(まとめ)
・青銅器がどこでつくられ、どこに運ばれたかを
検証すると弥生時代中期から後期、邪馬台国時代の
モノの動きが九州北部に限定されていない。
・畿内や出雲を含めた西日本、さらには関東まで
巻き込んだ広い範囲での交流があった。
・倭人伝が伝える「いま使訳通ずるところ三十余国」
は九州地域だけではなく、近畿、東海、山陰、北陸
関東までを含めた広汎地域に及ぶ。
・従ってこうした現象を「邪馬台国九州説」では
無理がある。
(古代出雲の注釈)
古代出雲は、青銅器を主とする西部出雲
(現在の島根県出雲市付近)と
鉄器を主とする東部出雲
(現在の島根県安来市、鳥取県米子市、大山町)と
の二大勢力から出発し、以後統一王朝が作られ
、日本海を中心とした宗教国家を形成したと
考えられている。
特に東部出雲は律令下のいう伯耆国まで連続的な
文化的つながりがあったため、特に弥生期では
出雲と伯耆(鳥取県西部)を出雲文化圏と
する向きもある。
考古学的見地からは、古墳が発達する以前の
特徴的埋葬様式四隅突出墳丘墓の分布状況から
すると、北陸地方なども上古出雲とすべきとの説も
ある。
これらの環日本海への版図拡大の逸話は
国引き神話として『出雲国風土記』に記されている
との見方も有力である。
(邪馬台国の所在地:以後不定期ですが続きます)
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