2011年05月24日

明智光秀:敗者の野望

明智光秀:敗者の野望

『時は今 天が下知る 五月哉』

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の句は周知のとおり
明智光秀である。

「時は今」は明智光秀の出と
言われる「土岐」一族を指すと
読まれているが、出自に至っては
多くの謎を残しているようである。

続く
「天が下知る」の「天が下」はそのまま
「天下」を指していると言われている。
そして
「知る」は「支配する」という意味とされる。

この句を詠んだのは
本能寺の変(1582年6月2日)の
直前の5月28日、
愛宕山西ノ坊で里村紹巴らと百韻の連歌会
を催した際と言われる。

丹波亀山から山城国に入る老ノ坂まで
兵には行き先を知らせずに行軍し
一気に本能寺と嫡男信忠がいた二条城を
襲った。

ところが
本能寺の変から11日後の
山崎の合戦で
秀吉の軍に敗れてしまう。

しかし、信長ほどの大きな存在を
殺した行動でもあったのにも関わらず
明智軍から大量の逃亡兵が出ていない
ことは賞賛に値すべき統率力であったと
作家の堺屋太一氏は『歴史の使い方』
の中で述べている。

但し
光秀と秀吉には性格的に大きな違いがあった。
光秀の周囲には足利の幕臣、高僧、連歌師など
古い社会で認められた人々が多い。
どちらかと言えば、人嫌いであったらしい。

一方、秀吉は
人好きで、女性も多く、家臣ともたわいない
会話もしたらしいし、主君の信長にも
おくすることなく近寄っていった。

本能寺の変の教訓として
「総論」こそがすべてを決定すると
堺屋太一氏は指摘する。

信長の原点は「天下布武」
つまり、すべてを武士が取り仕切る絶対王政で
秀吉は素直にそれを引き継いだ。

一方、光秀は、そうした総論がよく理解できなかった。
各論的な改革を実行することで
「修正足利体制」をつくる発想になっていた。

この二人の思考・行動の違いが
判断の差となり、結果の明暗を決めていった。

秀吉は既に足利体制は滅んだと理解し
信長の後継者として、信長が始めた革命を
どう確立するか考え、それを実行していった。

ここに修正主義を旗頭とした光秀と
信長革命を継承する秀吉との
決定的な違いにより
歴史の勝者と敗者に分かれることに
なったのである。


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Posted by 左近法務事務所 at 17:18
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