
大学3年の時、郷里の佐久市で学術調査がありました。
古墳が2基並んでいました。当時の私の専門分野は縄文時代でしたので少し戸惑いがありましたが
市の要請もあって、諸先生方と発掘調査することになりました。
古墳は後期古墳に属し、概ね信州では多いタイプでした。
古墳は通常、土若しくは石で覆われています。これが墳丘ですね。
当然掘り下げれば、石室にあたります。石室がいわゆる埋葬された人物が納められている場所です。
基本的に南に入口が設けられます。但しエジプトのように1人1室ではなく、何代かに亘って使われます。
考古学用語での「追葬」です。2つ目の古墳を発掘した際、頭がい骨だけ9体分も出てきました。
畳2畳位の広さですから、調査中に踏みつけてしまうこともしばしばありました。
日本は酸性土壌ですから、大腿骨や歯が残り得ますが、あとは殆ど土に帰ってしまいます
この時に
与良清先生と出会いました。
その後も、長くお付き合いさせていただきましたが
、いつも笑顔を絶やさず
真摯にして紳士でした。
先生は「おにぎり持参」で、腰に手ぬぐいの好々爺風情。
学生のころ
旧制の野沢中学まで、小諸から
歩いて通っていたとおっしゃられていました。
与良氏が
戦国武将の末裔で
武田に反旗を翻した
武辺者であったことを
ある史料で、偶然知りました。
先生は
「自分の家の出」など
一言もおっしゃりませんでした。
今、こうした先生が
本当に少なくなった気がします。
http://www.aoki-houmu.com/