先日のテレビで観た「後妻打ち」。
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後妻打ち(うわなりうち)とは
日本の中世における夫が
後妻と結婚するとき、先妻が予告のうえで
後妻の家を襲う風習である。
但し、全てにではなく飽くまでも
「離婚して夫がひと月以内に再婚した場合」に
限られていたようである。
テレビでの場面は先妻も家柄が武士の出であり
後妻もまた武士の家柄であったが
室町時代ごろでは一般の庶民の間でも
かなり普及していたと言われている。
室町時代から江戸時代に亘って
夫婦関係において夫は圧倒的な権威をもっていた
ため、妻はその言に唯々諾々と従うしかない、
というようなものであった。
妻に何の落ち度もなくても夫は一方的に
「三行半」をたたきつけて妻を離縁すると
いうことが平気でまかり通っていた。
たとえ夫が飲んだくれであろうと暴力を振るおうと
妻はひたすら耐え忍び、自分から離縁を言い出すことは
できなかったとされる。
そうした中で唯一、妻を保護する場所が
縁切り寺であった。
世界でも類例を見ない縁切り寺は
二か所あった。
一つは鎌倉の東慶寺。
もう一つは群馬(旧、 上野国新田郷)
の満徳寺であった。
東慶寺は、近世を通じて群馬県の満徳寺と共に
「縁切寺(駆け込み寺)」として知られていた。
江戸時代、離婚請求権は夫の側にしか
認められていなかったが、夫と縁を切りたい女性は、
当寺で3年(のち2年)の間修行をすれば離婚が
認められるという「縁切寺法」という制度があった。
幕府公認の縁切寺として、江戸から多くの女性が
東慶寺を目指した。
但し、女性が駆け込んできてもすぐには寺に入れず、
まずは夫婦両者の言い分を聞いて
、夫が離縁状(いわゆる「三下り半」)を書くことに
同意すれば、すぐに離婚が成立したという。
また、実際には離婚に至らず、調停の結果、
復縁するケースも多かったという。
この制度は、女性からの離婚請求権が認められる
ようになる明治6年(1872年)まで続いた。
(開山以来、600年近く縁切寺法を残し続けた
東慶寺は明治4年、その法が禁じられることとなる。)
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