
弥生時代の後期頃、日本の推定人口は60万人と言われています。
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その前の時代、縄文時代晩期は7.6万人(推定)
ですから、日本の人口は約8倍近くまで膨れ上がった
と言えます。
因みに奈良時代の初めは540万人。
江戸時代の初期は1,200万人。
通算した平均寿命は15歳〜20歳と考えられています。
平均寿命が短かった背景には乳幼児の死亡率が
高かったことが反映されています。
今に続く室町時代を源初とする「七五三」詣では
そうした乳幼児の死亡率と不即不離の関係を
持っています。
さて本題。
銅鐸は殆どの場合、偶然に発見されています。
そして銅鐸の出土状態から観察して大きく3つに
分類されます。
①遺棄
②埋納
③破壊
①の遺棄
辞書をひも解くと
「捨てておくこと・そのまま放置しておくこと」
と定義されています。
祭器としての銅鐸の在り方から考えて
こうした意見は消極的と思われます。
飛んで③の破壊。
最近の発掘事例では銅鐸が破片で見つかることが
あります。
しかし中には明らかに意図的に破壊された銅鐸も
出土しています。
破壊された銅鐸が何を意味するか
今後、さらに多くの発掘事例が出てくれば
その辺も解明されてくるでしょうが
②の埋納から比べればはるかに少ない。
矢張り主流は②の埋納説に落ち着くようです。
銅鐸の鰭の部分を地面と垂直に突き刺すように
置かれている状態が大半を占めています。
銅鐸は明らかに意図的に埋納されたものであり
それもただ単に埋納されたものではなく、共通した
法則を有していたと考定されます。
銅鐸はその殆どが谷あいの斜面に埋納されている。
そして共同体の中で儀礼があるたびに
掘り起こされ人々の前で
鳴らしたり披露(見せる)したりする。
長い時代を経て発見された銅鐸はくすんでいますが
使用当時は黄金色に輝いていた筈です。
掘り出されるたびごとに銅鐸に付着した泥を落としたり
錆を落とすために研磨が施されました。
しかし弥生時代の終わり
巨大古墳が突如、登場してくる前夜
銅鐸は製作されなくなり、埋納された銅鐸は
再び使用されることもなく土中で眠り続ける。
銅鐸を奉じた集団に何か重大な変化が起こった。
それは波及的な変化ではなく、ほぼ同時的に
津々浦々で起こった様相を呈しています。
これは
内部的な要因よりも外部的な要因を強く感じさせる
変化と言えます。
三種の神器とされる「勾玉」「剣」「鏡」を
一方で奉じる他集団。
銅鐸文化圏とさえ言える銅鐸は
『古事記』『日本書紀』にも書き記されていないことは
何を意味しているのか不思議としか
言いようがありません。
それを解くカギは「出雲」の存在を
考古学的な視点、文献史学的な視点で
捉えることによって、更に接近できるかも知れません。
「出雲と物部氏」
銅鐸を奉じた集団は物部氏と密接なつながりを
持っていたことが考えられます。
(銅鐸の謎、以後不定期ですが続きます)
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