
民俗学者である坪井洋文氏は『イモと日本人』
(未来社)のなかで
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正月に餅をつかない・食べない地域を挙げている。
それによると
山形県、栃木県、埼玉県、東京都、愛知県、
和歌山県、愛媛県、神奈川県、静岡県、長崎県
などほぼ全国に点在している。
勿論、長野県でも例外ではなく、そうした伝承や
事例が幾つかある。
こうした餅なし正月のある地域では
モチの代わりに里芋などイモ類を食べたり
供えたりすることも多いを言われる。
かつて稲作が伝播される以前の縄文時代。
縄文人の主食は、「クルミ・トチ・クリ・ドングリなどの
堅果類や、クズ・ワラビ・ヤマノイモ・ウバユリなどの
野生のイモ類を中心とする野生植物群」であった。
しかし、稲作の普及に伴って
モチに取って代わられていった。
ここまではよく言われる一般論であるが
佐久地方で特に南佐久の海尻地域での
餅なし正月は趣を大いに異にしている。
正月に海尻の多くの井出一族では、
門松を外に飾らず家の中に飾る。
三が日は餅を食べないでうどん等を食べ、
四日からお雑煮にして食べる。
もう10年以上前であるが、この真意のほどを
確かめたくて海尻城・海ノ口城
を訪ねた折、近在の老人に訊いてみた。
どうやら正月に餅を食べないのは本当のようである。
(門松のことは失念してしまった)
さて本題。
何故、正月に餅を食べないのか。
口伝では天文5年(1536年)の12月に武田軍が
海尻城・海ノ口城を攻撃したが落ちず
正月を迎えることになり一旦停戦の約束をした。
海尻城・海ノ口城では正月の準備に餅つきを
しながら祝宴を催していた。
その時、約束を破り途中から引き返した武田軍の
奇襲により酔いしれていた海尻城兵・海ノ口城兵は
悉く打ち取られ落城したと言われている。
つまり
「モチをつく時期に敵に襲われ
餅なし正月を過ごした先祖を思って食べない」
といった筋書きが考えられるのである。
(武田信玄初陣の謎)
天文5年(1536年)暮れ、甲斐守護武田信虎は
8千の兵を率いて佐久方面に出陣。
佐久平賀城主、平賀源心(玄信)入道成頼ら
2千の立て籠もる海ノ口城を攻めた。
36日間の包囲にもかかわらず海ノ口城は陥ちず、
冬の到来とともに信虎は兵を引き揚げた。
この際、信虎の嫡男、晴信(のちの信玄)は
初陣であるが、殿軍を申し出て、兵3百を率いて
海ノ口城に奇襲を掛け、海ノ口城は落城した。
(『甲陽軍鑑』)
海ノ口城は海尻城と共に甲斐に備えた境目城で
平賀源心の出城であったと伝えられる。
平賀氏は佐久の 平賀城の城主であった。
武田氏とはしばしば戦火を交えたが、天文5年
(1536)の末、武田軍が引き上げると見せかけ
城兵を油断させ、再び急襲して平賀源心以下を
討ち取り、武田晴信(信玄)が初陣の功名を
あげたという話でこの城は有名。
但しこの戦いが実際に行われたものか定かではない。
(平賀源心の謎)
平賀源心( 玄信)は信濃源氏小笠原氏の庶流
大井氏の庶流・岩村田大井氏の出自で
信濃国佐久郡平賀城主。
岩村田大井氏の一族平賀氏を
継いで平賀城主となる。
元々平賀氏は鎌倉時代に源氏門葉とされた
清和源氏義光流の名門だったが、
鎌倉時代に絶えている。
後は在地の氏族が名乗っていたと思われ
文安2年(1445年)以降は大井氏の一族とされている。
しかし平賀源心の実在は疑われている。
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