
『泣いた赤鬼』の続きに登場する「黒鬼」
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実は鬼の中で大将に相当する。
別所の北向き観音では
毎年2月3日の節分に
赤鬼・青鬼・黒鬼が街を練り歩く。
青鬼は「貧毒」-心のむさぼり
赤鬼は「瞋毒」-興奮して怒ること
黒鬼は「痴毒」-愚痴をあらわす
と言われている。
戦国時代の後期。
「黒鬼」と呼ばれた武将がいる。
【岡部の黒鬼】の異名を持つ
長盛がその人物である。
今川家の元家臣でのちに武田家と徳川家に仕えた
岡部正綱の嫡男として駿河に生まれ
1584年に家督を継いだ。
小牧長久手の戦い、第一次上田城攻防戦などで
戦功を上げている。
1590年に徳川家が関東に移封されると
下総山崎を中心に1万2千石を与えられた。
1600年の上杉征伐では下野黒野城の守備につく。
1609年に丹波亀山3万2千石に移封され
後に2千石を加増される。
大坂夏の陣で功があり、丹波福知山5万石に
移封となった。
1624年に美濃大垣5万石に移封となる。
1632年11月2日死亡。
岐阜県揖斐郡揖斐川町の瑞厳寺に葬られた。
ー参考までにー
(第一次上田城攻防戦)とは
1585年(天正13年)に起こった。
家康は鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉らを
討伐軍として上田に差し向けた。
その数7,000。
一方上田城に立て籠もった真田軍は2,000。
最初は神川合戦と後に呼ばれた戦い。
この戦いで徳川軍は1,300人の戦死者を
出したと言われている。
一方の真田軍の戦死者は21人だったという。
翌日、徳川方は上田城の支城であった丸子城を
攻めたが戦局は硬直したまま動かなかった。
(このときに岡部長盛が活躍したと言われるが
その真意は定かではない)
結局、徳川軍はその年の11月になって
突然兵をまとめて本拠地の浜松城に
引き揚げてしまう。
この引き揚げの背景には
家康の重臣であった石川数正の
秀吉側への寝返るがあったと言われている。
石川数正出奔事件に関しては
項を改めて書いてみたいと思っている。
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