2011年02月09日

義民:小林孫左衛門

義民:小林孫左衛門

江戸時代における信州の百姓一揆は多い。
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 信州田野口村等の佐久郡内の二十五ヶ村
一万二千石が天領地から田野口藩に
なったのは宝永元年(1704)のことである。
領主大給松平氏は三河にに本拠を置き
その他の四千石と佐久郡の一万二千石を
合わせて一万六千石の小大名であった。
佐久には田野口陣屋を置いたが
田野口村には割元と郷宿の役をおいた。
宝暦四年(1754)の
割元役は小林孫佐衛門がし、
名主は権助であった。

 同年、田野口村の百姓が夏の畑作不足のため
年貢の引方と子字半田の高の免除を
村役人に申し出た。
村役人はこの村民の願いを陣屋の郡代に提出した。

 さらに同年の暮、百姓は江戸藩邸の殿様に直訴した
ことから事が大ごとへと発展していった。
江戸藩邸では中村長兵衛を名代奉行として派遣し
直訴した文蔵を名主預かりとし、孫衛門には謹慎を
申し付け、その他江戸に出向いた五人は
役所に呼び出されて取り調べられた。

 これに対し百姓方は大集合をかけ要求を通そうと
計り、領内八ヶ村の百姓が大挙して陣屋に
押しかけた。
その数三千人ともいわれ、陣屋側では百姓の要求を
文書にして提出することを命じ、それを見たうえで
回答することを約束したので騒動は一旦収まった。

 百姓の要求は当初2ヶ条であったが、途中から
二十六ヶ条
にまで増え、ついには名代奉行と郡代は江戸の藩邸に
百姓の願いを伝えるために出向くが
その間に領内の村々へ年貢の割付書が
配られたことから
再び騒動が再燃してしまった。
その後、陣屋から一揆方に対し八ヶ条の回答が
あったが
これを不満とした百姓方は再び江戸に出て
直訴を企てた。
陣屋側では勝手にしろといって、同じく江戸へ
出発した。

 事態が重大な段階を迎えたことを認めた孫座衛門・
文蔵らは
名代奉行に謝罪し、奉行もこれを認めて陣屋に帰り
十七ヶ村から正式に八ヶ条を承知したという請書が
提出されて一揆は一応収まった。

 小林孫左衛門は一揆の首謀者として打ち首に加えて
全財産を没収され、文蔵は領分追放と
田畑召し上げとなった。
名主であった権助は所払いで、郡代深津源太夫らも
軽い処罰が下された。
 宝暦六年(1756)六月二十三日、孫左衛門は
田野口村幸の神で死刑となり、領内村々の総百姓の
ために
責任を一身に背負ってこの世を去った。
享年三十六歳。



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Posted by 左近法務事務所 at 18:47
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